太古の人の暮らしをのぞいてみよう

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第ⅩⅣ期うきたむ学講座 第1回講座

第ⅩⅣ期うきたむ学講座 第1回講座

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1月12日に第ⅩⅣ期うきたむ学講座の第1回講座が開催されました。13時から開講式が行われ実行委員長である吉田 歓先生の開講の辞と主催挨拶があり、岩崎副委員長の進行で講座が始まりました。参加者は講師の先生を除いて20名でした。

講座①は「郷土史家伊佐早謙が残した林泉文庫について」という題で山形大学人文社会科学部教授で山形大学附属博物館館長の新宮学先生からお話ししていただきました。先生が伊佐早謙について関心を持つようになったのは、沖縄県うるま市立中央図書館が2013年に行った山形大学所蔵の旧林泉文庫の訪問調査であったということでした。沖縄戦で史資料が失われた沖縄県の研究者にとって旧米沢藩士の伊佐早謙が収集した琉球・沖縄の漢詩文をはじめとする蔵書はかけがえのない貴重なものであったということで、このことを切っ掛けとして、2017年に特別展「山形と沖縄をつないだ琉球漢詩文」を山形大学附属博物館・小白川図書館で共同開催すると共に、この年から山形大学附属博物館、小白川図書館、国立歴史民俗博物館、米沢女子短期大学、市立米沢図書館のメンバーによる林泉文庫に関する共同研究が始まったとのことでした。

伊佐早謙は安政4年に米沢市に生まれ、昭和5年に亡くなっていますが、漢学者であり、漢詩人、教育者、郷土史家、図書館人という多才な人物で、明治の前半期には小学校・中学校の教師、明治の後半には上杉家記録の編纂に当たり、大正元年から昭和5年まで財団法人米沢図書館の第2代館長を務め、旧藩校蔵書を引き継ぐと共に市内の旧家名家から古書や珍籍の蒐集に努めるなど図書館人として活躍されたとのことでした。

没後、遺言で伊佐早が蒐集した林泉文庫のほとんどが上杉家に寄贈され「林泉文庫寄贈書及書目」され、昭和13年に上杉家から市立米沢図書館に3141部、11240冊が寄託されたが戦後になり、上杉家より購入の打診があり、市立米沢図書館では昭和28年と30年に郷土関係の1618冊を購入し、米沢女子短期大学附属図書館が昭和31年に521冊を、山形大学附属図書館が昭和30年に3706冊を、昭和32年以降に白鷹町の龍門図書館が1987冊を購入し他に未調査だが米沢興譲館高校や伊佐早家の保留分があり、古書店から県外にも流出したということでした。

現在各所蔵先で旧林泉文庫の調査が続けられており、「林泉文庫寄贈書及書目」と蔵書印を手がかりとして伊佐早謙の自宅の書庫「林泉文庫」の復元が進められることになるということでした。分散してしまったが、これの復元には大きな意義があるとのことで、お話を締めくくられました。

講座②は「戦国末期から近世前期の土豪と村落-小国石滝村・五味沢村の両齋藤家の事例を通して」という題で徳太郎文庫の渡部眞治先生からお話しをいただきました。 先ず、小国町北部の旧石滝村・五味沢村の両齋藤家(石滝齋藤善兵衛家・五味沢齋藤惣左衛門家)に残る文書分析を通して、戦国末期から近世前期の200年間に亘る土豪の存在形態と変容過程を村という地域社会との関係の中で明らかにしていくことが研究の目的であるということを述べられました。

石滝村は大永7(1527)年9月5日の伊達氏家臣大塚信濃宛に発給された「伊達稙宗安堵状案」に石瀧在家とみられるのが史料上の初見で、次いで天文22(1553)年に成立した『晴宗公采地下賜録』に「下長井白うさぎニほそや在家、(中略)小國の内、いしたき在家、(中略)各下、 大塚しなの」と記され、16世紀第2四半期には他の伊達領の幾つかの在家とともに大塚信濃に安堵されていたことが分かるということです。

永禄11(1568)年に齋藤伊豫安実が越後国の大畠の地から嫡子であった善兵衛と名子を連れて小国へやってきて、石滝村を切り開き居住するようになったということです。齋藤伊豫の父である十郎左衛門盛藤は本庄繁長の臣下で軍功により、越後村上の大畠村を知行地として与えられていたということです。石滝を切り開いた齋藤善兵衛家は名子の独立や一族の二男、三男を分出させることによって石滝に根を張っていく様子は齋藤家系図で確認できるということです。また、戦国末期から近世初期にかけて、石滝だけでなく、越後村上の小揚や小国町増岡でも新たに開墾していくことも知ることができるということでした。

近世前期の農村の生成確立過程は五味沢の齋藤惣左衛門家に残る古文書で知ることができるということです。天明6(1786)年12月に齋藤惣左衛門が代官所に提出した古文書の写しによると① 惣左衛門家は先祖より数代肝煎役を務めてきたこと。② 加えて五味沢村が開かれた頃よりの肝煎であること。③ 文禄年中から現在まで190年あまり続いていること。④ 享保8(1723)年からは五味沢村の肝煎は2人体制で行ってきたが、天明2(1782)年からは再び惣左衛門一人体制になったことが記されているということです。戦国期に武士身分の土豪として村を切り開き、近世には百姓身分に変わるが、百姓との関係で優位な立場を保ちながら、つぶれ百姓問題や、力を付けてきた小農民の不満や訴えにも対応しながら、村の中心人物としてあり続けていく姿が見えるということです。また、五味沢の生活圏内となっていた村上藩領の三面の山林管理や、氾濫を繰り返す河川管理などにも深く関与していたことを知ることができるということでした。

そして、結論として①侍身分だった両齋藤家が、近世初期に百姓身分となって現在まで続く村のリーダーとして力を尽くした意義は大きいこと。②戦国末期の村の開削と近世初期の村の運営において、土豪自身が培ってきた経済力とネットワークを梃子に地域社会の中で主導的な役割を担ってきたこと。③しかしながら米沢藩の農村支配政策の遂行により、次第に自立農民が創出されてくると百姓達の発言力も増し、五味沢村でも肝煎四郎兵衛と農民達の確執が表面化してきたこと。④享保期頃を境に、米沢藩では極度に財政が悪化し、幕府へ領地返上が画策されたが、明和4(1767)年に名君上杉鷹山が登場し、疲弊した農村の復興が目指されたこと。⑤この改革の中で藩の諸々の政策を受けて、かつて土豪であった村の指導層と百姓達がそれをどのように受け止めながら生き抜いていったのか、興味ある問題であること。ということでした。そして、これらの村の維持発展の長い過程の中で培われた地域社会の仕組みや風習、家や人同士のつながり、人々の自然への対峙の仕方等が、現在でも地域社会の中に少なからず息づいていることの意義も大きいということで、これらのことは今後の21世紀の日本社会における地域コミュニティーのあり方を考える上で忘れてはならない視点のように思う。というお話で締めくくられました。

吉田委員長の開講の辞

新宮先生の講義の様子

渡部先生の講義の様子

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